日本政策研究センターというところが発刊している『明日への選択』という月刊誌があります。昨年の3月のことでしたが、平成18年4月号にコラムを掲載して欲しいと担当の方からお申し出があったので、全国に展開されているような雑誌に自分の駄文など載せてもらってよいのだろうかと思いつつ、原稿を提出したのを覚えています。
もう1年以上経ったので、著作権やら何やら、ややこしいこともないだろうと思うので、ブログにも掲載させていただきます。
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私が市議会議員を目指していた頃、自分の子どもが障害を持って生まれてきました。2〜3万人に1人とも言われている障害で、地元には相談できる人などいるはずもなく、妻には孤独な子育てを強いてしまったと今でも悔いています。その中で行政や様々な福祉の機関に助けを求めても、むしろ母親をさらに追い込むような返事が返ってきたり、周囲の人達の障害児に対する知識のなさから出てくる言葉に傷つくことも少なくありませんでした。
ノーマライゼーションが大きく叫ばれ、福祉の分野は今後もそれなりに充実していくのかもしれませんが、その中で最も大切な『心のバリアフリー』ということを考えると、当事者でなければ分からないことがたくさんあることに気づきました。私は当時、お世話になっている方々から推挙をいただいて出馬を決めていましたが、大方の予想では、地盤も看板もない落選候補の一番手と言われており、しかも青くさい政策ビジョンしか示せない自分が本当に候補者として適任なのかずいぶん悩みました。しかし自分のような境遇の者にこのような障害を持った子どもが生まれてきたということは、もしかしたら『当事者の気持ちの分かるお前が議員になって、そのことに取り組みなさい』と言われているのかもしれないという気がして、そう思うようになってからはもう一切の迷いはなくなりました。
さて議員活動を通じてつくづく教育の重要さを痛感しますが、私は特に家庭の教育力の低下を切実な問題として捉えています。よく学校・地域・家庭の一体的な取り組みが重要と言われますが、授業に集中できない、人の話が聞けない、外の変化に柔軟に対処できない、人間関係をうまく築けない、些細なことでキレてしまう、これらの多くは間違いなく家庭に起因する問題であると思います。
私は家庭教育の現状において、過保護と無関心とに二極化しつつあると感じています。親は良かれと思っているのかもしれませんが、安易に何でも与えることや手を貸し過ぎることは、子どもが成長する機会を奪うことに繋がりかねません。また無関心は、子どもに対する最大の罪だと思います。なぜ朝食を作ってあげられないのでしょう。なぜせっかく公園に連れて行っているのに、子どもそっちのけでメールのやり取りをしているのでしょう。親が自分ではない他の何かに気持ちが向けられていることを、子どもたちは知っています。そしてその積み重ねが家族の絆を少しずつ蝕み、心が十分に満たされない青少年たちが出来上がるのだと思えてなりません。しかし家庭教育の現状を認識していながら、それを補うために何ができるかというと、その手立てはありません。まさに危機的状況です。子どもの成長のためよりも、自分が今やりたいことを優先してしまう大人のなんと多いことか。私たち現代人は自分勝手になったのです。
地方議員として、憲法改正や教育基本法の改正の機運が高まってきたことは良いことだと思っています。戦後教育によって、あまりにも個を大切にし過ぎた結果、今の社会があるのです。これを機会に、大人の都合で子どもたちを振り回すのではなく、未来ある子どもたちのために大人が何をしてやれるのか、という議論を強く望みます。そして私も家族の絆を取り戻すための取り組みを、議員としてのライフワークにしていきたいと思っています。