昨日の新聞が、舞鶴市の人口が戦後初めて『自然減』に転じたことを報じました。自然減とは、要するに一年間に生まれた子どもより亡くなった方の人数が上回ったことをいいます。
第2次ベビーブームの昭和48年には1840人が生まれ、およそ1000人の『自然増』がありましたが、昨年の出生数はその半分以下の865人で死亡者数よりも87人下回ったとのこと。由々しき事態です。
舞鶴の人口は毎年少しずつ減り続け、今では9万3000人ほどにまでなってしまいました。市総合計画では10万人を目指すこととしていますが、どうやって増やすのやら・・・そんな要素はどこにもありません。
舞鶴市の人口が減少する理由は大きく2つあるのでしょう。1つは若者の流出、そしてもう1つは少子化です。どこでも同じですよね。
若い人たちが学校を卒業して夢や希望を持ち、都会へ出て進学したり就職したりすることを止められるはずがありません。ただ、そうやって力をつけた彼らがいつかふるさとに帰ってきて欲しい、そのためには雇用の確保?暮らしを支援する制度の確立?・・・刺激的で比べ物にならないくらい便利な都会の生活に見切りをつけて帰ってきてもらうには、そんなことではなくてもっと重要な何かが必要なのでしょう。
税制の優遇措置などの支援をしたり、子どもの教育環境が格段に良かったりすれば、近隣の市町に勤めておられる市民・町民をこちらに住まわせられるようにできはしないか、つまりよそのお客様を奪うことができないだろうか、思案中です(笑)。
国の進める少子化対策は、少子化対策になっていないということがこの10年で証明されたのではないでしょうか。子育て支援は女性が働きやすい環境をつくるためのものであって、子どもを増やす、という政策ではないと私は思います。まさに『似て非なるもの』なのです。
最近時々、児童手当や税制の優遇措置を格段に行なえばそれにつられて各家庭が子どもを作るのではないか、ということを言われることがあります。この札束で頬をたたくような制度、私は『面白い、効果があるかもしれない』と実は最近まで思っていました。今でもその可能性は捨て切れていません。
ただ一方で、お金欲しさに子どもだけ生んで、育児を放棄する人もたくさん出る危険性があるため、こういった制度ではそこのところのケアができないような気がします。
結局のところ、教育に勝る少子化対策はない、というのが私の結論です。行き過ぎた個人主義の成れの果てが今の少子化社会だと私は思っています。私達は間違いなく社会に守られています。社会に守られているのだから、自分も何らかの形で少しずつ社会を支えなければならない。この『互助』の精神が決定的に欠けているから少子化になるのだと思えてなりません。
少子化をくい止めるには、憲法を変え、教育基本法を変えることがまず第1だと思います。国を想う心がなぜ軍国主義になるのかまったく理解できません。
追伸。
それにしてもたくさん降りました。写真は午前中の我が家の前の風景です。いつものようなベチャ雪ではなく、北海道産のようなさらさらのパウダースノーでした。明日の朝も雪かきやな。